スタジオ・ピノ

言葉は一瞬、文字は永遠。

母音に就いて

 

「未来」というのは、
いくつもの名前をもっている。

弱き者には「不可能」という名。
卑怯者には「わからない」という名。
そして勇者と賢人には
「理想」という名がある。

       ――ヴィクトル・ユーゴー

 

このごろ、若年にもかかわらず、才能のある人たちが、世の中にたくさん、現れはじめた。昔、私も、彼らと肩を並べられると願って、ひたすらに音楽活動を頑張ってきたつもりである。結果は、惨敗であった。今から七年ほど前の、二十一歳のことである。

当時、神奈川の戸塚に住んでいて、アルバイトをしながら、自作の歌を、当時いっしょのバンドをやっていた友人たちと、人前で披露したことが、たび、たび、あった。

貧しい暮らしを、はじめて味わった年齢だった。あのときは、よかった。

金がなくとも、無いなりに、日々を充実させる法を身構えていたし、それを青春と呼んでも、なんにも差し支えがなかった。希望。まあ、そのようなものにも、漠然と期待しておりました。客は付かなかったが、それでも、音楽を真底から楽しんでいた。当時のバンドメンバーのK君は、ドラマーであった。

「才能というのは、いったい、なんだろうね。」

ということを、おたがいに話し合ったこともあった。とにかく、その当時の私は、この日本中の音楽に拘らず、さまざまな外国の、若手の作品を貪っていた時期でもあった。

我武、者羅、だった。必死の思いであった。K君とは、ネットで、知り合った。あんまり、自分の意見を、言わぬひとだった。

正直に申し上げると、私は、彼を好きでなかった。第一に、K君は、文字を小さく書く癖があって、それが、気に入らなかった。音楽スタジオで、受付の手続きのために、帳簿に、K君が名前を記入したときのことであった。私がちらとK君の筆跡を見ると、気の弱い性格が、そっくり、そのまま文字に表れていたからだ。私は、初めてK君と顔を合わせたときから、その気弱な性格を見破っていた。それと同時に、バンドには、T君というギタリストもいて、私の友人で、演奏は、上手だった。彼だけは唯一、高等学校からの同級生で馴染みがあり、そうして、新聞屋で働きながら奨学金をもらって、専門学校に通う身の上であった。T君は、バンドの練習のたびに、それまでに習った専門の知識を、得意げに私たちに教えたのは爽快で、まったく嫌味がなかった。必死だった私は、彼の得意げな解説を、笑って聞きながら、忘れまいと覚え留めた。

三年後、バンドは解散した。原因は喧嘩だった。

私とT君は、たびたびバンドの練習中に言い合いをすることが、多くなっていた。おたがいに、音楽的な知識の有り、無しの良さを許し合ってはいたが、内心で撥ねのけていた。専門学校に通う生徒と、私のバンドとしての力量を比較して、いやになったのだろうと思った。ちょうどその頃、客が付かないバンド活動に対して、メンバーは一様に辟易してきて、つい、私とT君のれいの言い合いのはずみで、「ちょうどいいや、三年間の活動も、ついに陽の目を見ない。ここらで、お互いに好きにやっていこう」ということで、解散したのだ。懸命だと思った。

T君は、専門学校に通い始めてから、私とK君に、すこぶる偉い口調で指摘をすることもあったのだ。横柄、お山の大将。まあ、そんな工合の態度でした。年寄が若者にあれこれと指図をするような画像を思い描いていただいたなら、きっとそのような言い合いだったでしょう。最初から、合わない者同士だったのです。解散してからは、仕方がない、と割り切っていました。それでも、私は音楽の情熱を、忘れませんでした。相変わらず、日本の音楽は、好みませんでしたが、古い曲を好きになっていました。

今となっては、それがぴったり身について、あんまり、周囲との話が合わないのですが、さいきん、ちょっと、それに就いて関心の出来事があったので、私が愛読している『太宰治先生』の手癖をお真似して、ひとつ、書いてみよう、と思っただけのことなのです。

 

ノーウエーという雪国あり。また、ひとりの女性歌手あり。オーロラ、という名前である。いかにも雪国の出自と伺える白い肌、鼻が高く、鼻孔は子豚のように上に反って、お世辞にも、きれいな鼻ではない。発音のきれいな、雪どけ水のような透き通った声をしている。微細な声量でも震えない、管楽器のようなのどを持った、若く有能な歌手で、二十四歳、ということだった。真っ白い髪の毛が、印象強く残っている。

私が彼女の歌を知ったのは、もうずいぶん前のことで、衝撃だった。私自身、周囲の変化には疎い人間なので、あまり詳細な時期を記憶していないのだから、ずいぶん前、ということしか書けないのだけれども、これまでに聞いたこともないリズム感と、楽曲構成だったことは、覚えている。ほとんどシンセサイザーが主体で、やはり、川のようにさらりと流れる音楽を、得意としているようだった。若手の才能が、存分に発揮せられていて、見事である。

これが、ノーウエーの音楽なのか、としばらくの期間は、彼女の歌に聞きほれて、大変に気に入っていた。私が関心を持ったのは、二〇二〇年、九月のことである。はじめて彼女の歌を聞いて、それから次第に飽きてきてしまって、それまで、まったく忘れていたように、彼女の歌を聞かなくなってしまったのだが、このごろになって、改めて聞いてみた。新曲だった。リリースは、同月内であった。やはり、出会って最初に感じたリズム感はいまも変わらず継承されており、聞き慣れるのが難しかった。三拍子だった。曲名は、『The Secret Garden』。

妖精の住む森。このイメージがすぐに思い浮かんだ。きれいで、力強く、草花の喜びと、蔦が大木の幹を這って、太陽へ向かって成長していく、そんな森の息遣いが聞こえてくるような音楽で、私は、聞いていてとても嬉しくなった。

久々に、このような爽やかな音楽を聞いた、と思った。

『Hear the flowers like their hymn has healing power』。

この曲の歌詞の一部であるが、私がこの頃関心を持ったというのは、この『Hymn』という言葉についてである。讃美歌、という意味である。Hymn。改めて見ると、不思議な字面である。母音が、ないのだ。私はこの子音だけの言葉をみて、ふと思った。

讃美歌とは、キリストを讃える歌であり、キリストは信仰者の父ということになっているのだから、あえて、子音だけで綴られているのではないのかしら。

母の音と書いて、母音。なるほど、この言葉自体が、キリストを信じて、そうして、信仰熱心なのである。

ヒム、と発音するのだそうで、これまた不思議な気持ちがした。特殊な響きである。この言葉を作った人は、すごいと思った。きっと、てんから神をお慕いしているのに違いない。些細な発見ではあるが、ひと昔まえの日本でも、こういった言葉遊びに興じたタイトルや歌詞をもって、さまざま発表せられた時期があったことを思い出した。

これもまた、ひとつの才能なのだろうか。オーロラといい、Hymnという言葉を作った人といい、私ももっと、彼らから多くのことを学ばないといけない、とすこし張り合いが出たのである。私が自分の音楽活動に対して、すこしずつ、あきらめを感じてきた頃でもあったので、余計に、有り難く思った。もっと、私自身を、信じてやらなければ。そう自分に教えて、このような発見を、つい、書いてみたくなった。

才能とは、多少ばかり、横柄な物言いをしたって、なんの罪悪でもないのかもしれない。私は、当時のバンド活動を振り返って、私に付き合ってくれたK君と、T君に感謝して、私の愛読する太宰治先生や、数少ない友人、陰ながらに応援をして下さっている方たちのすがたを思い浮かべて、これからも、自分の頼りない力量で、行けるところまでは、行くつもりだ、と、そっと誓って、この手記の、結びとしたい。